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「社会学入門」期末レポート2011-6

「食事の形態から見る若者の孤独感」

二宮奈津美

 


 

1.序論

 「便所飯」という言葉を聞いたことがあるだろうか。近頃、一人で昼食をとっている姿を見られるのが嫌だといってトイレの個室で昼食をとる若者が存在しているらしい。はじめはただのネットスラングだったこの便所飯という言葉は、いまやウェブ上の辞書に単語登録されてしまうほどに浸透している。単独行動を恐れる傾向、その一方で、一人の方が気楽で心地がよい、自由であると感じる人々も相変わらず一定数存在するようだ。彼らの違いはいったい何なのだろうか?そして、便所飯という一見理解しがたいこの行動を若者たちの心の変容とともに考えていきたい。

 

 

2.本論

 

a.ランチメイト症候群について

 精神科医、町沢静夫は一緒に食事(昼食の場合が多い)をとる相手、いわばランチメイトが存在しない状況、一人で食事を取らざるを得ない状況に恐怖を感じることを「ランチメイト症候群」と名づけた。

 このような症状を抱えた彼らが食事をとるのに最も居心地がいい、「聖地」として選んだのがトイレの個室だ。

「【便所飯】(べん・じょ・めし)おもに若者が、トイレの個室の中でひとりで昼食をとる行為のこと。人目につく場所で、ひとりで食事をしていると、「一緒に昼食をとるような友達がいない人間だ」と、他者から思われてしまう─こうした強迫観念、友達もいない寂しい人間、変わった人間に見られたくないという一心で、「ひとりで食事する姿を、絶対に誰にも見られない」トイレの個室に駆け込む。」*1

 このように彼らは、ひとりで食事をとることそれ自体よりも、その姿を他人に見られることに恐怖を感じている。この現象は学生だけにとどまらず、若いOLにもみられるようだ。ところが一転、学校や職場から離れた飲食店でひとり食事をとることは苦痛でないという。やはり彼らが徹底的に避けたいのは「あいつは友達がいないやつだ」と思われることであるのだろう。

 

b.なぜ友達がいないと思われるのが怖いのか?

 友達がいない、なんとなく寂しい、孤独である。そのこと自体が恐ろしく、不安であるというのなら理解するのも容易だ。しかしランチメイト症候群を抱える彼らは孤独そのものよりも「あいつは孤独だ」という他人の評価のほうを恐れている。孤独を恐れ逃避するためにたとえば他人に執着したり、女を囲ったり、といった行動をとる人間は昔から変わらず存在したが、現代の若者がそのような新しい恐怖と逃避の方法に至ったのは何故なのだろう。ひとつの要因として、幼少時における教育の変化が考えられる。

 日本の教育は近年めまぐるしい変化を遂げた。競争を強いられた教育からゆとり教育へ、個人の個性を尊重する、いわば平等教育の時代になってきた。平等教育の概念に基づけば、生徒を評価する立場の人間、つまり現場の教師たちは子供たちを個々の能力差で褒めたりあるいは(たとえ間接的ではあったとしても)貶したりすることは許されなかった。ある子供を「足が速いね」と褒めれば足が遅い子供の親から、成績が良いことを褒めれば物覚えの悪い子供の親から咎められる。そんな教師たちが唯一何も考えずに子供を褒めることのできる要素、それが「『友達が多い』点だ。」*2 友達をつくること、誰とでもうまくやっていける能力に限っては他者と比較して評価しても咎められなかったのである。

 その大人たちの対応は、子供たちに「友達が多いことは素晴らしい」と信じこませた。しかしそれは同時に「友達がいないやつはだめなやつだ」という逆の考えも産み出してしまった。個人を否定することを止めた教育が、今度は人物の評価を他者との関係に依存させる結果となり、「『孤独であるおれはとんでもなく、みじめだ』という思いを彼ら彼女らの中で増幅させ強化させ、彼ら彼女らを自己否定へと追い込んでいる」*3のである。昔の大学生に多数みられたメランコ人間*4流の「私は私、自由にやらせてもらう」といった考えは少数派になったのだ。彼らの行動にはいつも他者との関係、そしてそれに対する評価がつきまとう。

 

c.見えない「いじめ」

 何もこれは便所飯的な逃避行動にはしる者たちだけに限った話ではない。無意識のうちに我々は、他者をそういった観点で評価しているのではないか。

「いまの子供たちは、日々苦しんでいる。友達がいない=人気者でない生徒は、落伍者とみなされ、見えない形のいじめにあっているようなのだ。いつしか、『友達のいない人間というのは、いじめられているのだ』と刷り込まれて」*5しまうのである。つまり、友達がいないと自分で感じる、または周りからそう思われている人物というのは実際に物理的な(暴力を振るわれる、金品を奪われるなどの)いじめ行為をうけていないにしても、なんとなく肩身が狭い「かわいそうなヤツ」との烙印を押されながら生活しているということだ。見えないいじめは厄介だ。まず、加害者が存在しない。「止める」という行為は不可能で、存在しない。いわば、その人物を「寂しい人間」と思っている全員が加害者なのである(本人含め)。若者たちは深層心理的にこの目には見えないいじめを恐れて逃避行動に走るのかもしれない。

 

d.ランチの光景における男女の差

 先ほどOLの便所飯事情を取り上げたが、同世代のサラリーマンにはこの現象はあまり見られない。ランチの相手を探しておろおろする彼女らとは違い、多くのサラリーマンたちは一人で昼食を終え、さっさと午後の業務に戻ってしまう。こうした昼食のとり方に見られる男女の違いとは、一体何なのだろうか。

 実際にクラスの男女10名(男女各5人)に「食堂でひとりで昼食をとることについて」聞いてみた。結果は以下の通りである。

「別に気にならない」と答えた数:男子4名、女子2

「さみしい、いやだ」と答えた数:男子1名、女子3

 このように、やはり女性の方がひとりで昼食をとることに抵抗があるようだ。ちなみにこのとき同時に「なぜ、一人では嫌なのか?」と質問したところ、やはり「友達がいないさみしい奴と思われるのが嫌だから」という答えが返ってきた。

 この意識の差は、男女の帰属意識の強さの違いが原因すると思われる。小学生ぐらいの幼少期から見られる特徴として、女子特有のグループ行動がある。女性たちは昔から、さまざまな要素(容姿の雰囲気、趣味、あるいは共通の敵)に基づいてグループを作って行動してきた。どこかに属したいという彼女らの強い気持ちに、先述したような他人の目を強く気にする心理が拍車をかけ、より一人を恐れる結果となったのだろう。

 

e.世代間の違い

 「便所飯」「ランチメイト症候群」は近年生まれた非常に新しい言葉である。ではこれまでの時代の若者たちには、こういった苦悩はなかったのだろうか?精神科医の著書にこんな記述がある。

「かつて、若者と食事をめぐる心のトラブルといえば「ランチメイト症候群」とまったく逆の「会食恐怖症候群」の方がポピュラーだった。これは、その名の通り、ひとりでなら外食もできるが、他人が近くにいると緊張してうまく食事ができなくなるという、自意識が先鋭になる若者ならではの行動障害。」*6

 つまりこれまでの世代の若者も、同様に食事について何らかの精神的な症状を抱えていたが、その性質はどうやら正反対であるようだ。彼らの精神的不安は自意識に基づいている。自意識とは「周囲と区別された自分についての意識」*7である。このように、これまでの時代の若者の食事における精神のトラブルは、他者とは切り離された自分の中にある「自意識」に基づいていた。ところがどうだろう、一転して現代の若者にみられるランチメイト症候群等のもろもろの症状やそれを形作る他人からの「孤独者」という評価を恐れる精神は、他者に完全に依存している。

 現代の若者は自己のイメージが欠損している。というより、自己のイメージを確立できないほどに自意識が成熟していない。自分の自信も、また反対の自己否定の気持ちも、そのどちらもが他者からの評価に依存する。第三者の目から見た客観的な自分を、自分自身でイメージできないがゆえに、その手がかりが他者からの評価しか無いから、その評価が気になって恐ろしくて仕方がないのである。

 

3.結論

 「便所飯」的行為は逃避行動そのものである。友達がいない=落伍者という風潮に短い人生の間ずっとさいなまれ続けた現代人は自尊心と恐怖心だけを膨らませた、否定を嫌がる臆病な大人になろうとしている。孤独を、孤独であることを楽しむような人物は激減した。そんな彼らは他人からの否定的な評価を恐れるどころか、他人から評価されることすら拒否するようになった。その精神が便所飯という文字通り個室への逃避行動へとなっていったのだろう。

 ではどうしたらそのような苦悩から解放されることができるのであろうか。もっとも重要なのは自我を、自意識を確立することである。彼らは自己のイメージを他者に依存しすぎて、自分自身と向き合うことを放棄してしまっている。

「その関係をうまくやろうとするあまり、本当の自分と向き合ったり、それを発揮したりすることを放棄してしまっているのかもしれません。孤独を避けることで生じる弊害といえるでしょう。」*8

 人は元来それぞれが個別の存在であり、その始まりも終わりも孤独なものである。こういった認識は孤独を恐れる彼らにとってはとても耳の痛い、不快に感じることだろう。しかしそれを理解したうえで「お互いに個別の人間であっても愛情や信頼は変わらない」*9ことを何らかの形で確認することが、それを受け入れる手助けになるのではないだろうか。とにかく現代の若者には、平成の平等教育で否定されてきた自意識と自己の個別の存在を受け入れるということを思い出す必要がある。「便所飯」は一見他人の目からの逃避行動であるように思えるが、実際には何より自分自身と向き合うことからの逃避なのである。

 

 

 

*1*2*5和田秀樹「なぜ若者はトイレで「ひとりランチ」をするのか」祥伝社

*3諸富祥彦「孤独であるためのレッスン」NHKブックス

*4メランコ人間─自分の考え方を中心とする人。対義語に、同調傾向の強い「ジゾフレ人間」がある。

*6香山リカ「若者の法則」/岩波新書

*7 goo辞書「自意識」の頁より

 町沢静夫「学校、生徒、教師のための心の健康広場」駿河台出版

*8*9吉田和子・高橋紀子「大学生の友人関係論」/ナカニシヤ出版